愛着と信頼(2)
私が今まで生き残ってこられた最大の要因は、要所要所で必ず誰かが見ていてくれたことだ。
そしてそれは、ほとんどの場合学校の先生だった。
幼稚園、小学校、中学校と、必ず一人は私を特に評価して目をかけてくれた先生がいたから、
私は家庭では母に全否定されながらも、それ以外の評価があると知っていた。
私は、中学まではそこそこ勉強もできたし、何よりも可愛いげがないくらいに頭の回転が早かった。
そう言うと偉そうに聞こえるが、しかし、常に誰かが私を引き上げようとしてくれたということは、
自惚れでなく、そう思わせるなにかがあったということだと思う。
学校の先生たちのおかげで、私は機能不全家庭にいるわりにはのびのびとマイペースに育ち、それでもなお何か満たされない気持ちを抱えていた。
「お前はいつもどこか寂しそうだ」
と、彼に言われたことがある。
何をしても埋められない欠乏感。
不遜に振る舞おうと、自己中心的に空気を読まずに生きていようと、それが私の虚勢であることを彼は知っていた。
私は当時、恋愛をすることでその欠乏感は埋まると思っていた。
自分が好きになった相手が自分を好きになってくれれば、それが世界のすべてだと思っていた。
でも、自分の欠乏感を埋めるのは他の誰の仕事でもなく、私自身が変わらない限りは埋まらないのだった。
その時は、分からなかったけれど。
その勘違いのせいでずいぶん長く勘違いした恋が続いてしまったが、まぁ今思えば、それらも無駄ではなかったと思う。
いまだに、やっぱり自分には不幸の方が似合う気がしてしまう。
幸せになることには、縁がないような気がしてしまう。
それでも、今この手の中にある幸せを大切に思うことだけは、できるようになってきたのだ。
私を大切に思ってくれる人がいることを、もう私は知っているから。