女子と占い
独身の頃、親友と占いに凝っていたことがある。
カフェのマスターが占ってくれる店から、道端の占い師まで、ノリで色々行っていた。
どこに行っても毎回二人とも「苦労人」と言われ、苦笑したものだ。
親友は「苦労して経済的自立を果たしてきた」、「人生を通じて人に奉仕する」と言われ、
私は「精神的な守備範囲が広く」、「男は掌で転がさないと気がすまない」と言われた。
分かる…恋愛の主導権は自分が握らないと気がすまなかったんですよ…当時…
親友である彼女と、人生に迷うと占いに行き、悪いことを言われれば「分かる分かるー!」と盛り上がり、言われたいいことを信じてまた日常生活に戻っていった。
別にそこでハマったり宗教に流れたりはしなかったのだが、
人生に迷走する20代女子としては、割とあるあるなパターンなのかもしれません。
おかげさまで二人とも結婚し、当時のワーキングプアぎりぎりの生活からは抜け出し、また別の人生のステージをやっている今日この頃です。
愛着と信頼(2)
私が今まで生き残ってこられた最大の要因は、要所要所で必ず誰かが見ていてくれたことだ。
そしてそれは、ほとんどの場合学校の先生だった。
幼稚園、小学校、中学校と、必ず一人は私を特に評価して目をかけてくれた先生がいたから、
私は家庭では母に全否定されながらも、それ以外の評価があると知っていた。
私は、中学まではそこそこ勉強もできたし、何よりも可愛いげがないくらいに頭の回転が早かった。
そう言うと偉そうに聞こえるが、しかし、常に誰かが私を引き上げようとしてくれたということは、
自惚れでなく、そう思わせるなにかがあったということだと思う。
学校の先生たちのおかげで、私は機能不全家庭にいるわりにはのびのびとマイペースに育ち、それでもなお何か満たされない気持ちを抱えていた。
「お前はいつもどこか寂しそうだ」
と、彼に言われたことがある。
何をしても埋められない欠乏感。
不遜に振る舞おうと、自己中心的に空気を読まずに生きていようと、それが私の虚勢であることを彼は知っていた。
私は当時、恋愛をすることでその欠乏感は埋まると思っていた。
自分が好きになった相手が自分を好きになってくれれば、それが世界のすべてだと思っていた。
でも、自分の欠乏感を埋めるのは他の誰の仕事でもなく、私自身が変わらない限りは埋まらないのだった。
その時は、分からなかったけれど。
その勘違いのせいでずいぶん長く勘違いした恋が続いてしまったが、まぁ今思えば、それらも無駄ではなかったと思う。
いまだに、やっぱり自分には不幸の方が似合う気がしてしまう。
幸せになることには、縁がないような気がしてしまう。
それでも、今この手の中にある幸せを大切に思うことだけは、できるようになってきたのだ。
私を大切に思ってくれる人がいることを、もう私は知っているから。
や!す!み!
ついにお盆休みに入った!
休める!何も心配せずに休める!
と、思っていたら家から全然出ずに一日が終わった…
よくあるよね。
考え方のクセ
行動認知療法を調べていたら見つけた、考え方のクセの例。
―――――
[考え方のクセの例]
自分はダメな人間だ。
なんでも自分でやらないといけない。
すべての人から愛されなくてはいけない。
人は自分を利用するだけだ。
人に弱みを見せてはいけない。
少しでも気を抜くと大変なことになる。
―――――
え、全部当てはまるんですけど…
むしろ、これを手放したら今度は依存に傾いてしまう気がするので、多少病的でも自立している方がよくない…?
と思ってしまう性格だから治らないんでしょうね…
それは自立ではなく、母親から植え付けられた思考のパターンだと、根本的に割りきることができたらいいのだけど…自我の下層まで根を張っててとても取り除ける気がしません…
タイトルなし
とりあえず盆休みが見えてきたからか、情緒は安定している。
いっぱいいっぱいで視野が狭いと何かとオーバーフローしがちだけど。
仕事は、決して嫌ではないのだ。
それでも、煩雑になると完璧主義が顔を出して、完璧にできない自分に苛立って鬱々しくなるか、
完璧にやろうとして崩壊するかのどちらか。
それでも、さすがに何年も社会人やってると、そんな自分の思うような仕事ばかりやってお給料もらうことなんてできないことくらいは気づく。
だから耐えるけど、自分はいったい何をやってるのかと途方に暮れる。
とりあえず、休みたい…