午前3時の雑記帳

病気でもない、普通でもない息苦しさをまとめるブログ

数珠繋ぎ

 

2010年の日記。

 

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バイタリティーと向上心のある自律した人間だと思われることもありますが、後ろ向きで不安定な面の方が自分としては大きいと思う。

少しずつ分かってきたけどね。自己肯定感の低さ、幸福感の欠乏、その根底は全て「愛されたい」という願望。

ダメな男ばかり彼氏にするのも、依存癖があるのも、こだわりが強いのも。

わかってはきたけれどでもまだ、乗り越えられる気はしません。

というか、そういう風に私は育ってきてしまったわけで、今さら人格の根本的な部分を変えることってできるのかしら?

 

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2013年の日記

 

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相変わらずこだわりが強いし不安定だけど、前よりまともな人間になれている気がするの。

身体も弱いし不健康だけど。

でも、もう私は愛されているって知っている。

 

必死に自分の価値をつかみ取りたくてがむしゃらにやってきたけれど、もうそんなに頑張らなくていいんじゃないかな。

 

最近の葛藤。

 

体力的な限界だけは、努力と気合と根性じゃどうにもならなくって。

引き際を考えている。

 

諦めたくない。けれど、身体を壊してまで頑張らなきゃいけないのだろうか。

 

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現在

 

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ふとした瞬間に死にたくなるけれど、それでもかなり、普通の人間に近づいて来たような気がする。

普通に結婚し、家庭を持って、教員をやっているなんて、想像もできなかった。

 

働く上でのスキルは、どちらかといえばある方だ。

その点にだけは、自信がある。

「お前はどこに出しても恥ずかしくない」

と、私の先生が言ってくれたことに恥じないように。

私は自分にできることをできる範囲で真摯にやり続けるだけだ。

無理をしようとすれば、今でも自我が軋むから、

自分の出せる出力を見誤らず、そしてそれ以上を求めないこと。

完璧主義は精神を殺す。

それだけは、妥協して自分に課さなければならないけれど。

 

もう、世の中を斜めから見たり、不幸を背負い込んだりしないでいられそう。

あの頃悩んで、辛くて、苦しんだ日々も、無駄ではないよと思える程度には、

私はいま立っている場所に満足している。

それでも、未来が不安なことは変わらずだけれど。

どうにもならないことはどうにもならない

職場で色々あり、疲れた…

毎度こんなに疲れていると、モチベーション保つのは難しい…

でも、意識がマイナスに振れていると大体執筆がはかどるので、

それはそれで「よっしゃキテるぞ!書こう!」と思えるので、そういう楽しみ方をするようにしている。

落ち込んでも、悔やんでも、どうにもならないことに関して、

仕事に関してだけは、自分と切り離して考えられるようになってきた気がする。

だって私が落ち込んでも凹んでも、問題は何一つ解決しなくない?

ここから先どうするべきかは考えなければならないけれど、過ぎたことはどうしようもない。

と、思うことに対しての罪悪感はなくなってきた。

それでも、漠然とマイナスに振れていく(=ストレスがかかっている)ことは止められないので、生きにくいことは変わらないのですが…。

ファウスト

きっと私は幸せなのだ、と、頭ではわかっているつもりでも、なぜか欠乏感が拭い去れない。

私の身に染み付いてしまったのは、幸福よりも不幸だ。

これでは、すっかり幸福へのセンサーが壊れてしまっているみたいではないか。

それでも幸せになりたいと嘯いてしまうのは、そうすることで生きる目的を、いや、生きる言い訳をし続けているのだ。

自分は幸せにならない自信がある。

そうして生きてきた。

 

あの日からしばらく、3年くらいは、それまでが嘘のように毎日が楽しく感じ、

そして自分の幸せを心から感じた。

それでも、人間とは欲深いもので、その状態に慣れてしまうのだ。

常に自分に付きまとう不幸の影に、やはり絡めとられてしまう。

あぁメフィストフェレス、私を黄泉へと連れて行ってしまえばよい。

一瞬見せてもらった夢は本当に幸せだった。

この尊い幸せに私が慣れきってしまう前に、まだ輝いているうちに、全てを終わらせてしまえばよいのに。

強迫行動

そういえば、私は当たり前のように脳内で数字を数え続けたり、

(特に、階段の上り下りで無意識にカウントを初め、そのまま歩数を数え続けて120くらいで気づくのは日常茶飯事)

ふとした瞬間に良くない言葉や性的なワードが頭から離れなくなるとか、

(会議中に起こるの、本当にやめてほしい…)

自分の手が汚い、と思い始めたらその事しか考えられなくなるとか、その汚いと思ってしまった方の手で何も触れなくなってしまうとか、

(一回洗えば気が済むのでそう重度の症状ではないと思っている)

最後に帰るときに職場の鍵を閉めたかどうかが不安で、帰り道を途中で引き返して確認してしまったり、

(確認しに戻ったら絶対ちゃんと閉まってるのに)

してしまいながら生きているのですが、どう考えても強迫性障害なんだよなぁ…

でも、まだ日常生活をさほど侵食してはいないので、治療の必要は感じていないものの、これはこのまま放っておいていいものなのか…

何かのきっかけで悪化したりすると困るけれど…

虚しさ

自分の孤独と、それでも生まれてきた意味を探して、心理学を学んだり、精神分析について調べてみたり、哲学書を読んだりしてはみた。

書いてあることにより、色んなことが府に落ちはした。

例えば、私と母の確執とか。実家が機能不全家庭であったこととか。妹が心を病むに当たっての過程とか。

それでも、そこに救いはなかった。

私に必要だったのは、何もかもを含めて、自分を赦し、祝福を受けることだったのだろう。

いくら理論が身に付いても、私の生きづらさは解消しなかった。

私の10代後半から20代の初めまではずっとそんな調子であった。

 

今の虚しさは、ただただ働き、家と職場を往復し、金を稼ぎ、生活し、ただその事に疲れ果てていくことへの虚しさだ。

まるで、自分の魂が削れていくような、そんな辛さがある。

こんなことを繰り返して、気がついたら年を取っているのだろうか。

(ちなみに、しばらく主婦をしてみたこともあるけれど半年もしないうちに、社会との接点が無さすぎることに耐えられなくなったので仕事を辞めれば解決するということではない)

やっと、アイデンティティが確立して、自分の幸せを自分で認められるようになったのに、

それなのに待っているのはこんなに疲れ果てていくだけの日々なのか。

彼のお陰で私は生まれ変わったように自由になったのに、私が選んだのは、こんな日々なのか。

それが辛くて悲しくて虚しくて、

 

ああ。だから私はこの日々が終わることを願っているのか。

子どもの頃の夢

私は、小説家になりたかった。

漫画も描きたかった。

そして、多分すごく頑張れば、私の作品は多少は日の目を見ることもあったと思う。

小学生の時には、夏休みの課題で新聞社の賞をもらったり、

高校時代ひょいと応募したものが、1次選考を通ることもよくあったから。

ごくシンプルな短編で、地元で小さな賞をもらったこともある。

 

それでも、いつしか私は書かなくなった。

 

それは、私の不安定な自我がアイデンティティとして一応の決着を見た頃と重なるのだ。

小説より希な人生を歩んで、他人に愛着を持てるようになって、大切な友だちができて、

そうしたら、私の中に溢れていた物語の欠片たちはいつの間にか見つからなくなってしまった。

物語の中に自分の望みや願望を投影する必要がなくなったのかもしれない。

 

いまはすっかり、仕事に疲れはてて執筆をする元気もないというのが本音ですが…

それでも、こうやってブログを書くことがリハビリになるとよいけれど。

やっぱり、私にとって文章を綴ることは、生きていくことと同義である。