夏至の日
日が落ちるのが遅く、
仕事帰りの空もまだまだ明るい。
ほんのりと朱く
グラデーションする空を眺めてため息をつく。
ぽつりと。
彼の名前をつぶやく。
認知の歪み
結婚してから、思考停止のキーワードが「死にたい」になってしまったため、このモーメントの方と同じような状態になっています。
でも、その「死にたい」に適切な感情を当てはめられるようになれば、別に死ぬほどじゃなくなる、という話。
確かになぁ…自分もその傾向あるな…
「憂うつ」も、「めんどくさい」も、「恥ずかしい」も、「途方にくれている」状態が自動でひとまとめに「死にたい」に分類されてしまうから問題なのか…
あれかな?心のなかに松岡修造とか住まわせればいいのかな?
しとしとと
日光が出ない日が続くと調子が出ない。
なのに、少し落ちている気分は慣れ親しんだものでなんだか妙に安心したりする。
昔の思い出は、当事者のはずなのに自分も含めた遠景のシーンとして、思い出されて。
そんなわけないだろうと、一人で苦笑しながらつっこんでしまう。
10年も前の思い出に、私はいつまですがりついているのだろう。
根本的に悲観的
最近ときどき、「元気なくない?」と聞かれる。
自分には至ってそんなつもりなどないのだが。
心当たるとすれば、『閉塞感』だ。
主人というパートナーがいて、安定した所属がある。
とりあえず生活に事欠かないだけの仕事がある。
義理の実家も自分の実家も、とりあえず自分のことは自分たちでやってくれるので苦労はない。
もうそれでいいだろう、と、消極的な私は思う。
なんでこんな生ぬるいところで立ち止まっているのか、と、どこまでも生き急ぎたい私が言う。
できることならもっと学問をやりたい。
でも、金銭的なことを考えると踏み出せない。
(博士号までは短くても5年はかかるだろう)
働きながらの博士号取得は…体力と生命エネルギー(笑)の貧弱な私にはかなり難しい気がする。
あぁ。なぜこういつも、アクセルとブレーキを一緒に踏むような思考に陥るのか。
タイトルなし
言葉で、一体どれだけのことが伝えられるのだろう。
時に、言葉の無力さを感じ、それでも、言葉でなにかを伝えようとすることを止めるわけにはいかない。
言葉の力を、私はそれでも信じているのだろうと思う。
安定と所属
ほんの時々、夢に私の先生が現れる。
正確には、私が出してるんだと思うけれど。
ただ、最近、「彼」なのだが姿が「主人」という状態が混ざるようになってきた。
多分、これまで彼が果たしてくれていた役割が、主人に移ってきたのだろう。
それで、無意識下というか概念として、彼と主人をどこかまとめて認識している部分が生まれたのだと思う。
なんだかそれは、複雑な気分になる。
親で得られなかった愛着の獲得を、彼を親代わりに代替したことで満たされていた所属の欲求は、今は主人との新しい「家族」という居場所に変わったのだろう。
彼も、主人も、確かに私の「戻る場所」だ。だから、私はそこから離れて辛いことがあっても、戻れば、安心する。
だから、決定的にダメになってしまうことだけは今まで避けてこれた。
私がひとりぼっちだったら、これまでの種々のストレスに耐えられなかったに決まっている。とっくに入院モノだ。
だから、こうやって生活が変わっても、安定した所属が確保されているということは、それは良いことだと思う。
けれど、やっぱり。少しだけ、さみしい。
戻る場所はちゃんとあるけれど、誰も―世界中の誰も、先生の代わりなんかできないはずなのだ。
それなのに私は、先生のいない生活に適応していってしまっている。
それでいいんだ。そうじゃないとむしろ困るんだけど、でも、やっぱり、悲しい。
なみだのあと
いまよりもっと、自分の人生に納得がいっていなかった頃。
私はもっと、自分の不安定さを一人で抱えることができなくて、私はよく泣いていた。
恐らく、涙として排出しなければ私の心と体は耐えられなかったのだと思う。
(仕事を始めてしまえば、あの頃はなんて些細な事でいっぱいいっぱいになっていたのだろうとか思うんだけれども、その時のキャパシティはそれだけしかなかったということで…)
初めは、中学生くらいの頃。折り合いの悪い母との関係や、学校でのことで、よく風呂に入りながら泣いていた。誰にも気づかれないためには、そこしかなかったから。
当時私は感動や悲しい、ではなく、悔しさでしか泣かなかった。泣けなかった。
その後も、誰かに心の内を言い当てられたり、優しくされると泣きそうになって困った。これは、今でも変わらない。
そして、私は私の先生に出会って、自分のうちに貯まっている混沌や澱みについて、少しずつ言語化するようになった。
話しているうちに段々感情が高ぶってきて、決壊するように涙が溢れて、泣き止んでしまえばなんだかすっきりしている、という状態で。
それは一種のデトックスだったのだと思う。
彼の庇護のもとにあった間、ストレスがかかったり、一人で抱えきれないことが起こったりしたときには、先生のところに逃げて行って、話を聞いてもらっていた。そして大体毎回、泣いていた。
泣くことが許されなかった子ども時代の抑圧のせいで、私の「泣く」という機能はなんだかおかしい。