タイトルなし
月曜日が来るのがー
つらいー
ゆーうつー!
うつー!
せめて夢で、会いたい人に会えればいいのに。
采配は
うまくいかないことも、
うまくいったことも、
幸運も不幸も、
適切に自分のせいにして、
適切に他人のせいにして、
適切に運だと思わないと、
バランス悪くなるとだめだよね。
全部自分を責めるのも、
全部他人のせいにするのも、
どちらも間違っている。
いいことも悪いことも、大体、運だと思おう。
書籍メモ
「ちょっとしたことでうまくいく 発達障害の人が上手に働くための本」
を買ってみました。
発達障害と言うには、せいぜいグレーくらいにしかならないと思うのですが、自分の行動パターンと得手不得手のジャンルを考えると、なにか役に立つのではないかと思って。
「長期の仕事になかなか取り掛かれない」「約束の時間が守れない」「業務の段取りができない」「仕事の優先順位が分からない」など、目次を見てるだけでもあるある状態に…(笑)
読んでみて、自分で納得できたことや、改善策などもここに記録して、試してみようかなと思います。
それにしてもこの本、「デスク・引き出しの整理ができない」の項目の対策が、『「とりあえず」見た目だけでもマシにする』ってのがいい。信用できる。
なにせ無理に捨てようとしたりすると、必要なものも捨てたり何がどこに行ったか分からなくなってあとから惨事を招くんだよ(笑)
見た目だけでもなんとかできれば、それで全然構わないもんね。
なぜだかこの世は生きにくい
何を隠そう、私もB型。
確かにマイペースではあるが、だけど同時に気にしすぎも持ち合わせているので、『人目を気にする自由人』という、アイスの天ぷらみたいな矛盾の塊が出来上がってしまうのである。
この記事についているコメントに、激しく同意してしまった。
s***** | 12時間前
自由を求めるB型にとって、この世のなかは窮屈だからストレス値が高いのだと思う。
多様化を認めるなんて名ばかりで、
学生→社会人→結婚→子供
のような定番人生を歩まないと叩かれる世の中。A型のような型にすっぽりはまって安心するタイプに適した世の中なのだと思う。
まぁ、血液型は関係ないってきくけどね
確かに、世の中のスタンダードにはまれないし、はまれてないことへの後ろめたさみたいなものも感じるけれど、
自分が決してそんな風に生きられないことも自覚があるのだ。
私たちはB型として生まれて、B型として生きていくのである。
まぁ、血液型は関係ないってきくけどね。
小さな進歩
なんと、
3年放置していた、
ボタンつけを!
やれた!!!
私は「やらなければならないのは分かっているんだけど…」ということを、病的に後回しにしてしまう性質があって、
こればかりは、「やりたくてもやれない」ので、自分でも言ってて意味がわからないのですが、
そんなカンジで3年後回しにし続けたボタンつけを、唐突に思い立ってやったのです。
これは、かなり進歩だと思うのです。
働きはじめて以降、常に疲れきっていたのに。
やってもやらなくても死なないボタンつけがやれた。
4月になって、勤務体制が若干変わったおかげかと思います。
なんか久しぶりに、人間らしい生活ができている気がします…ありがたや…
「普通」という目に見えない制服
あるある。
ふつう、が分からないのだ。
もう私の場合はそれを開き直っているフシもあって、
(というか、研究とかやろうという人間は、人と同じ感覚じゃやっていけないから、変わっていてナンボです)
『天然』とか、『ちょっと変わった子』ポジションになることについては慣れている。
それでも、仕事上の『ふつう、こういうときはこうするよね』とか、『ふつうあそこであんなこと言わないよね』っていうのが、私にはわからないのでいつも困ってしまいます。
それでもしんどくなったら、「自分は『ふつう動物園』にフィールドワークに来ているんだ」と脳内転換しよう。
「ふつう動物園」には、「やさしい課長」とか「おせっかいだけど、いろいろ教えてくれるパートの主任」とか「チクチク言ってくる係長」とか、いろんな“動物”がいて、それぞれが自分にとっての「ふつう」を言ってくる。
「へえ、この人にとっての『ふつう』って、こういうことかあ」と観察する心の余裕をもとう。「ふつう」と言いながら、そこにはその人の凸凹が表れているはずだ。それを突き止めてみよう。
頑張ってその仕事上の『ふつう』を、経験則で身につければよいのではないかとか思ったこともあるけれど、結局この記事の通り、それぞれの人がそれぞれの『ふつう』を言っているだけなので、全部合わせるのは不可能だという結論に達したので放棄しています。
そもそも、自分にとって『ふつう』がないんだよなぁ…
それでも一応、社会的に、『全くもってあり得ない!!』と思われない程度の逸脱で留めておきたいな、というのは思っています。
懐かしさ
昔の日記を読み返していると、
懐かしくて苦しくなる。
アイデンティティが拡散しまくって収集つかない私と、保護者のようにそれを見守ってくれた彼の、記録がいまは物語のように感じる。
そのとき何を考えてどう感じていたのか、すっかり思い出せなくなってしまった。
それでも、自分の文から滲んでいる、先生への全幅の信頼と親愛が、胸を苦しくさせます。
あぁ、私はなんてあの頃子どもだったのだろう。
そして、そのときには見えていなかったけれど、先生もまた、私を頼っていたのだとも気づく。
彼が辛かったであろうあの時期に、私の存在はきっと、意味があったのだ。
私が彼に受けた恩も、私が与えていた赦しも。
あのときお互いに、なくては乗り越えられなかったのだろう。
10年経って。あのときの彼と同じように、あの頃の私のような子たちに「先生」と呼ばれるようになって。
馳せる思いがあります。