偽りきれない
特にメンタルを揺さぶられたわけではないのだが、なんでだか涙が止まらなくなって閉口する。
しかも仕事中。ああもう本当にイヤだ。
多分、日頃からメンタルギリギリで暮らしているため、完全に感情が許容範囲一杯だったんだと思う。
どちらかというと我慢強く、基本的に辛抱してしまうから、大体何かと積もり積もってて、きっかけさえあればそれが溢れてきてしまうのだ。
何なら私にとって、嬉しいこともツラいことも等しくストレスで、できることならできるだけ感情の振り幅は小さく生きていきたい。
それでも明るく朗らかなフリをして、打たれ強いフリをして、仕事もしてるし生活もしてる。
「本当のお前は繊細なんだよ」と、先生にも言われたが、でもそれで生きていくのは大変だから、大雑把を装って生きていくしかないのだ。
本音は言えない
基本的に、ひねくれているのだと思います。
斜めからしか物が見られないし、
人の褒め言葉は素直に受け取れないし、
大多数には迎合したくないし、
みんな持ってるものには惹かれないし、
と、自分では思っているのだけれども。
主人と結婚してから、以前よりは、物事をシンプルに感じられるようになったような気がします。
未だに、ツラいとか苦しいとかは、こうやって不特定多数の前にしか出せない感情なのだけれども、
嬉しいとか楽しいとかは素直に出せるようになったかなと思う。
自分で自分の感情に振り回されてぐずぐずになっていると、
先生に「素直になりゃいいのに」と笑われた。
自分のことを複雑な人間だと思いたいようだけど、俺から言わせれば桜は単純で分かりやすいよと。
そう言って笑ってくれるから、私は絶望しないでいられたのだと思う。
そうして少しだけ、マシな自分になれてるから、まだ、諦めないでいないとな。
恐怖でしかない…
まぁそのうちに子どもを持つ気になるだろう、と。
結婚して3年だらだらしてきたが、相変わらず自分の子どもというものに恐怖しか感じない。
主人は子どもをほしがっているので、そろそろごまかしきれない…
案じるより産んでしまったほうがなんとかなるのかもしれないが、
漠然とした恐怖や不安は、私の行動を鈍らせる。
結局私は、『いくら考えてもよく分かんないから、出来たら仕方ないから腹をくくる』という、投げやりな前進をすることにしたわけだが、
でもきっと、何かしらの理由があって主人との間に子どもができないとなったら、きっと私は安堵するだろう。
怖いのだ。今この安定した生活が変化することが。
そして、こんな時代に人ひとり育てるという大仕事が、私のように自分ひとり満足に生かせない自分に出来るとは思えないのだ。
そして、こんな時代を今から生きていくことが、幸せだとは思わないのだ。
そんなかわいそうな人をひとり増やす意味が分からないのだ。
私には分からない。
そして、こういう考えを持ってしまう自分が子を持つことは間違っていると思ってしまうのだ。
それでも、きっと全ては考えすぎで、私と違って明るく正しい主人の子を持つことは、それはそれで幸せで、生活は変化してもそこに新しい幸せはあるに違いないのだ。
ネガティブな心根が、その希望を選びとる勇気を出させてくれないだけなのだ。
それも、分かっている。
分かってはいるのだけれど。
疲れてもなお走り続ける人
周りだけが頑張っていて、まるで自分はダメ人間のように思えることがある。
いや、確かに私はダメ人間なんだけれども、でも、一生懸命やれるだけやってるわけで、まるっきりダメってことはないんじゃないかってことは分かる。
それでも主観として、自分はなんの役にも立たないと思ってしまいそうになる。
そして無理をして大体さらに落ち込むドツボ。
立ち止まることも休むことも自己管理のうちだとは思えど、終わらぬ日常のどこで休めばいいと言うのか。
休みの日だって家事やってたら1日終わっちゃうよ。
スペインの宇宙食
基本的に、ベースとして精神が不安定で、思考は内に内に入っていき、そういう性格をしていて病まないはずがないわけだけれど、
それでもなんとか、メンヘラで他人に迷惑をかけることもなく、ガチな精神疾患認定もされず、死ぬこともなくサバイブしてきたわけでして、
その幸運な理由のひとつに、「スペインの宇宙食」との出会いがある。
高校時代、家族との折り合いが大変悪く、いま思えば、何度か解離が起こっていた頃。
耽美な語り口、ドラマティック過ぎる氏の幼少期。
そして、菊地氏自身が不安神経症を患っていたこと(と、後に精神分析やら整体やらで完解する)である。
何度も何度も読んだので、手に触れる部分は色が変わり、表紙は毛羽立ってかさかさになってしまった。
何度読み返して癒されただろう。
食事、音楽、映画、フェティシズム。
猥雑であり、しかし下品さのない(意図的に出そうとしたりしてるけど)氏の文章は、そのときの私をうっとりさせた。
そこからフロイトをかじってみたり(したけど感想は「なんでも性的とか言ってんじゃねーよ!」ですw)、ジャズを聴いてみたり(したけどやっぱり私はドリカムが好きだよ)して、
そしてなんとか、「混沌とした己をそのままに生きるという諦め」を会得した気がします。
受容したのではなく、諦めたという表現の方が合っている気がする。
不思議なことに、その後、私は私の先生と出会って、やっと人生が廻り始めて、そしてそれからもう一度「スペインの宇宙食」を読んだら、あの頃のような陶酔は得られなかったのだ。
高校時代の私に、確かにあのときに出会うべくして出会った本だったのだと思う。