考え方のクセ
行動認知療法を調べていたら見つけた、考え方のクセの例。
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[考え方のクセの例]
自分はダメな人間だ。
なんでも自分でやらないといけない。
すべての人から愛されなくてはいけない。
人は自分を利用するだけだ。
人に弱みを見せてはいけない。
少しでも気を抜くと大変なことになる。
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え、全部当てはまるんですけど…
むしろ、これを手放したら今度は依存に傾いてしまう気がするので、多少病的でも自立している方がよくない…?
と思ってしまう性格だから治らないんでしょうね…
それは自立ではなく、母親から植え付けられた思考のパターンだと、根本的に割りきることができたらいいのだけど…自我の下層まで根を張っててとても取り除ける気がしません…
タイトルなし
とりあえず盆休みが見えてきたからか、情緒は安定している。
いっぱいいっぱいで視野が狭いと何かとオーバーフローしがちだけど。
仕事は、決して嫌ではないのだ。
それでも、煩雑になると完璧主義が顔を出して、完璧にできない自分に苛立って鬱々しくなるか、
完璧にやろうとして崩壊するかのどちらか。
それでも、さすがに何年も社会人やってると、そんな自分の思うような仕事ばかりやってお給料もらうことなんてできないことくらいは気づく。
だから耐えるけど、自分はいったい何をやってるのかと途方に暮れる。
とりあえず、休みたい…
能ある鷹は、
大学~大学院時代にかけて、ずっと秘書のように研究室を回してきて、
どう考えても、自分は仕事はできる(得意不得意分野はあれど)ということは確かに分かっていて、
この事に関しては確信に近い。謙遜も何もしない。
ただ、働く相手との相性によってパフォーマンスが変わることに関しては自覚がある。
当時は、指導教官であるところの先生とほぼ二人きりだったからこそ、私はのびのびと失敗を恐れず動けたし、
少々子ども心を忘れなさすぎる先生は私がお目付け役をしているからこそ、クリエイティブな類いの仕事をやっていくことができた。
「能ある鷹は、爪を隠しなさい。お前は優秀だ。『この人のために自分が働きたい』と思える人の元でだけ、全力を尽くしなさい」
と、何度も言われた。
いま思えば、この言葉があったから、私はなんとか社会生活を送っているようなものだ。
仕事をしながら、理不尽だと思いながらも、叱責されたり怒られたりはするもので、
それでも私は、そのときにはものすごく凹むけれども、
『私を使いこなせないのであればそれは、上がそれだけのレベルだということだ』と嘯くことができる。
前に書いたことと矛盾している気もするけど。
でも、それくらい、私をギリギリで踏みとどまらせてくれているのは、ことごとく彼なのだ。
私を見ないで
仕事をしながら自分で困ること。
・押しが弱い
・考える時間が必要
・他人の目が気になりすぎる
一人で自分の責任において何かをやる場合、私はすごく臨機応変に判断することができる。
若かりし頃、種々様々なアルバイトをして身に付いた現場判断スキル。
そして、大学院生時代には指導教官を差し置く勢いで研究室を仕切っていましたから…。
一方で、組織の一員として動くことはとても私にとっては苦痛。
そして結局判断基準が「上司に怒られないようにするには」になってしまって、控え目控え目なチョイスしかできなくなってしまう。
もしくは、学生とわざわざ衝突するようなことは、極力避けてしまう。
それは、自分自身の精神的な体力(←?!)的にツラいものを避けているので、これは怠慢ではなく防衛な訳ですが、
『周りからは頑張ってないって思われているのだろうな…』とか思って一人で勝手に死にたくなります。
ついでに、『嫌われないように生きているこんな人間は他の人から嫌われるに違いない…』という負の思考が始まっても、死にたくなります。
他人に興味がないくせに、人の目と評価を気にしてしまう私は、他者を意識するポイントが根本的におかしいに違いないと思うのですが、何が正しいのかもよく分からないので直しようがありません。
届かぬ願い
わかるよ悲しみが人との距離を広げる
時間がもしも味方なら早く過ぎてほしいのに
あのでっかい肩にしがみついて
一番泣きたいときにいないから
ねぇ
どのポケットも思い出でいっぱいのその服を今日は脱いでみようよ
もしかして思うより案外平気なことに気づくかもしれない
大丈夫
最悪の時はもう過ぎているから
私も本当はまだよくわからないけど きっと
傷ついていいの
それほどに思える人と
そんなたったひとりと出会えた
私だから
どのポケットも思い出でいっぱいのその服にあえて手を通そうよ
どのポケットもあなたの愛が一緒に詰まってたことに気づきなさい
どのポケットも思い出でいっぱいのその服をもう脱いでみようよ
どの思い出もあなたの愛と一緒だから大丈夫
いかせてあげなさい
必ず心から笑える日はやってくるから
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どうしようもないと泣いてしまって、
でもそれが私にとっては必要なプロセスだった。
涙を流さなければ、いっぱいになってしまった感情のコップを軽くはできなかったから。
不安定な心を自分ではどうにもできずに、その混沌を聞いて落ち着けてくれるのは彼だった。
自分でできない仕事を、私は彼にやってもらうことでギリギリ生きていた。
不安定な私に共鳴せずに、それでもすぐ側にいてくれることが、救いだった。
いまでも、私の感情のコップは突然溢れそうになって、本当に困る。
表面張力でなんとか持ちこたえながらも、それでも根本的な解決はできないまま、ごまかしごまかしやるしかなかったりする。
ツラくなる。
叫び出したいほど、彼に会いたくなる。
「せんせい」
と呟くと、胸が軋む。
それでも、ずっと分かっているのだ。
ずっと一緒に生きていくわけではないということ。
どんなに望んでも、そのルートはないということ。
彼と一緒にいたときから、知っていたのだ。
私は、巣立っていかなければ、いや、もう巣からは飛び立ってしまったのだということ。
それでも私は願ってしまう。
「せんせ、悲しくて仕方ないんだけど、どうしたらいい?」と問えば、
またあなたが「今度はどうした?」って優しく困ったように聴いてくれることを。
もうきっと二度と来ないのに。
五里霧中
仕事があまりうまくいかず、
(というか、私のやり方をなんとなく周囲に否定されて)
心が疲れ中…
明らかに自分にストレスがかかる方法を、なぜ推奨されなくてはいけないのか。
確かにそうするのが道理なのかもしれないけれど、明らかな効果が上がるとも思えず、
私自身にかなり強いプレッシャーとストレスがかかるに違いない方法を。
周りの同僚が納得するかどうかという理由だけでチョイスする妥当性が果たしてあるのだろうか。